昭和54年12月1日 月次祭
                           中村良一


おかげを頂いて有難いと思う。信心を分からせて頂いて有難いと思う。まぁどちらも、大切なことですから、おかげも頂かなければならないけれども、より、信心を分からせて頂く喜び。信心を分からせて頂く楽しさでないと、本当の信心ではないと。本当の信心でないという事は、本当なおかげは受けられないという事です。どうでも、一つ、本当のおかげ、神様が、受けてくれと言うてお出でられるおかげ。神様に喜んで頂けれるおかげの世界に住みたいと思います。
明日は、ここで、青年会の方達の大会が開けれます。教務次長をなさっておられる、池田という先生が、講師で,お見えるという事でございます。前々から、その事が、お願いしてございましたから、さぁ、御取次ぎをさせて頂いておりますが、ポスターが出来ております。またあの、パンフレットの様なものが出来ておる。昨日、会長が、そのパンフレットを持ってまいりましたが、やっぱり、あのポスターと同じように、けしの花の図案化した絵が描いてある。これは、どういうところから、けしの花の、なんか訳があって、けしの花にしたのかと、私が聞きましたら、いいや、別に、訳はありませんとこう言う。けしの花のお知らせは、昔から、毒にもなれば、薬にもなると言う、お知らせの時に頂いたもんです。毒にもならなきゃ、薬にもならんというのが、一番つまらんですよね。あってない如しという事であります。ね。
私の、修行中の時分に、頂いたお知らせの中に、私が、風呂を焚いてる。そすと、中に張ってる人が、はぁ極楽極楽と言うては入っている。ところが、その周囲の人達は、もう鼻をつまんだり、もう、こんなもん焚いてと。私が、その、タイヤの、ね。自転車のタイヤの、もう古くなったんごたるとやら、昔は、ゴムの草履がありました。あの、ゴムの草履の緒の切れた様なのを、どんどん、焚きよる訳です。で、中で、お湯に入ってる人は、極楽と言ってるけれども、周辺の人はもう、臭いもんですから、いわば、鼻つまみされておった時代。ね。段々、おかげを頂いて、ね。その、まぁ、臭いものを焚かんでも良いようになったんですけれども、まぁ、あの時分が、私の信心の、まぁ毒にもなりゃ、薬にもなるといった時代じゃなかっただろうかと思う。ね。やはり、毒にもなる、薬にもなるという様な信心が、今、教団では、いや、金光教のご信心に、ね。そういう信心を、神様は、願われておるのではなかろうかと思います。ね。いわば、人情教に成り果てようとしておる傾向が、教団全体にございます。行き届くという事は、もう、人間心を使うという事のように言われております。ね。実意丁寧神信心が、段々、百年たつうちに、言うならば、心情教の筈の金光教が、人情教に変わり果てて行こうとしておる。その、明日の青年会の事を、神様にお願いをさせて頂くと、革新とか、革命とかという様な事を頂くんです。これは、やはり、若い力による他にはない。言うならば、金光教は、そういう革新していかなければならない。ね。まぁ言うならば、血を見ない革命とでも申しましょうか。ね。という様なものが、教団でも、その事に、まぁ気付かれたと言うか、その事に、いわば、力を注いでおられます。その、革新というものは、私共のいう、それとは、少しは違うようですけれども、やはり、そうです。
先ず、第一に、教典の編纂が行われようとしております。ね。教典が変わるのです。勿論、教祖の神様の御教えを、沢山ある中から、色々と、まぁ研究されておる訳でございましょう。奉祭様式が、もう、全教的に変わります。もうこの、お扉を開くと言ったようなご信心ではない。ね。式服が、変わらなければならないと言うので、今、様々な形の、この式服が出来て、まぁ研究されておるということでございますが。それは、形の上の事でございますけれども、金光教が、新たな、言うなら、金光教として、ね。おかげを頂いていかなければならないという時に当たっておりますから。そういう、形の事もだけれども、ね。その内容、そのものが、ね、変わらなければならんのだと、私は思うです。勿論、教祖のご信心によるものですけれども、ね。金光教のご信心は、教祖の御教えの全てが、ね。御神徳を受けることの為にあると言うても良いのです。おかげが著しい。そのおかげに、ただ、酔うておるだけではいけない。ね。教祖の信心の、金光教の真髄と言われる、ね。信心をすれば、御神徳が、誰でも受けられるという、いうならば、信心であります。ところが、実際は、ね。御神徳を受けて、その後神徳が、あの世にも持ってお出でておられるであろう、この世にも残しておられると言う様な、いうならば、御神徳を受けられたと言う方は、ここ、百年の信心の中にでも、数えるだけしかない様に、私は思う。ね。教祖信心の深さに、または、広さというものに触れていないという感じがする。ね。誰でも、御神徳が受けられる手立てを、今、願われておるのでございます。
日本の国は、ね。色々、変わりに変わってまいりました。その過程の中を、大きく分けると、大化の改新と言われました。ね。武家政治の起こりと。明治維新。そしてまた、昭和維新という事にもなるでしょう。ね。それが、みんな、その時代の、若い世相の方達が中心になって、そういう一つの運動を、また革命を致しております。若い者の力によらなければ。金光教も、やはりそうだと。ね。
合楽で、今、言われておる、合楽理念と言うことは、ね。まぁ言うならば、教団の中ででも、ね。まぁ、総好かんを食っておるような感じです。中に、若い、生き生きとした、いうなら、信心の生き生きとした、瑞々しい、ね。これではいかん。教団はこれでは、このまま、いわば、ジリ貧になっていくという様に、感じておられる、いうなら、生き生きとした、若々しい信心を求めておられる方達は、これはもう、いよいよ、合楽理念をもってしなければいけないという、合楽理念の研究をなさっておられる方もある。合楽にご縁を頂いておる者は、もう、その合楽理念によってする他なし。ね。(たきみぞ?)さんのお祈り添えを頂いておりました、末永先生が、ね。いよいよ、南米に帰らせて頂きました。それこそ、海外布教は、合楽理念をもってする他はなしという思いを、一段と、強く頂いて、ね。丁度、二年間、こちらへ帰りましてから、ね。その、二年間の間に、彼が頂いた信心。それをもって、また新たな、いうならば、南米布教が、生き生きと出来ることでしょう。そして、いよいよもって、海外布教は合楽理念をもってする他はないという様な信念が、ただ、二年間、帰ってておった間に、一段と、冴えて来たという感じがします。もう、それこそ、一分一厘間違いのない、私が、絶対という言葉を使うが、確かに、親先生が言うことが、絶対だと言う確信をもって、あちらに帰らせて頂いたことだと思います。ね。どんなに考えても、南米に、帰られるという事は、全然、あの手この手を使ってでもという時代にも、とても、駄目だという事であったけれども、やはり、人事の限りを尽くさせて頂いた。帰らせていただきます、そのずっと前に、二ヶ月間、骨折して、その病院に入院しておった。その半ば頃に、もう、いよいよ、あの駄目だと言う、いうなら、宣告を受けた。そのお届けに来た時に、今、ここで、修行をしておる二ヶ月間の修行が、最後の仕上げの修行だと、私は申しておりましたが、ね。退院をしまして、間もなく、もうそれこそ、不思議な不思議な働きが起こって、そして、まぁ、こちらで、あちらに永住することの出来れる永住権を入手する事が出来るという様なおかげを頂いた。ね。
まったく、お知らせのまにまに、ね。あちらで、半年間、布教して、もうとにかく、まぁ手紙の上ででも、有難いことだなぁ、本当に素晴らしいと、こう思うような御比礼が輝き出した時、神様から、ね。これは、あだ花だと頂いた。このあだ花が散ってしもうて、新たに咲いた花が、本当な花だという様に頂いておりましたが、ね。あちらでの、いうなら、あだ花が散って、これからは、本当の花が咲くことになるでしょう。ね。そういう、おかげを、言うなら、実証して行かなければならない。ここの信奉者の一人ひとりが、ましてや、若い世代の方達がです。言うならば、古い金光教を、あんまり身に付けてない、知らない人達が、ね。新たな、言うなら、合楽の信心によって、金光教祖の教えておられたことが、こんなにも素晴らしいんだという実証を、していかなければならない。全教、一新していかなければならんという事が、教祖、三代金光様の時代から言われておりましたが、ね。本当の意味においての、言うならば、革新であり、革命と思われるくらいな一新がなされなければならぬ。それは、いわば、心情教から、人情教に、こう果てて行こうとしておる、その心情教が、人情教が、ね。神情、神情と言うのは、神の情ですね。人情と言うのは、人の情けと書いてある。人間心から、神心を持っての、言うならば、人の助かる手立てを、いよいよ身に着けていかねばならぬという事になります。
今日も、お参りになっておられますが、先だってから、ある大きな教会のご信者さんです。それこそ、毎日、朝の御祈念を欠かしたことはない。毎月、長い間、御本部への月参りも欠かした事はない。月の初めには、先生に来て頂いて、ね。謝恩の御祭りもして貰う。毎月、御霊様の慰霊の御祭りもさせて頂く。もう金光教の信心をさせて頂いて、これだけの事が分かり、出来るようになったら、もう、最高だと、また思います。また思われて参りました。皆が、あんな信心にならなきゃならない。ところがどっこい、おかげのほうは、それに伴うていかない。そこに、一つの迷いと言うわけではないですけれども、行き詰まりを感じておられるところに、合楽の話を聞かれた。たまたま、先月の十三日会に出られて、まぁ合楽の信心に、まぁ本当に触れられた訳です。
昨日、お参りして見えられましてから、親先生に、あちらの親先生にお届けをさせてもらいました。ね。合楽に、こういう事情で、ご縁を頂きましたが、合楽の信心の、まぁ言うなら、素晴らしい信心であるという事を感じました。これから、ここの日参も、また御本部参拝も、または、月々、仕えて頂いておったお祭りも、一時、やめさせて頂いて、一つ、本当な信心を、合楽で勉強したいからと思いますからと言うて、そのお届けをしたと。やっぱ、信心にも勇気が要りますよね。はぁ本当に、勇気のある、そういう心を、私は、若い心、ね。言うならば、瑞々しい青年の信心だという風に思います。だから、年をとっておるからという事ではないのです。ね。そういうところから、本当なものを求めて行こうとされる姿勢。いわば、教団の、言うならば、傾向としてです。信者の中に、そういう手厚い信心が出来るようになったら、言うならば、もう良い信者として、まぁ自他共に、それを認めると言うような感じである。おかげの事は言わない。私は、どうでも思いますのに、真の信心をさせて頂いたら、真のおかげが伴うて来なければいけないと思う。
その方が、丁度、十三日会を終わられて、翌々日だったでしょうか。参拝になった、朝の御祈念に。お夢の中に、心の中に、何時も、真の信心、真を信心という事を思うておったら、ね。合楽建設とは頂かなかったけれども、とにかく、建設に奉賛するという事が、真の信心だと頂かれた。考えてみれば、考えてみるほどです。言うならば、真の信心に奉賛する。真の信心建設に奉賛する。昨日聞いたばかりの、合楽建設の事が、頭にすぐ響いてきた。そこで、これは、合楽建設そのものが、神様の願いが、あのようにして、成就しておるんだという頂き方から、あくる日は、ご建築の、まぁ御用に使うて頂きたいと言うて、お供えをなさった。真の信心とはね、神様の願い、神様のお心に添い奉るという事が、真の信心だという事です。ね。だから、今の合楽にご縁を頂いておる人達は、そんなら、合楽建設という事に、もう、打って一丸とならせて頂くという事が、今は、真の信心だと私は思います。ね。神様の働きに、言うならば、奉賛することです。ね。そこから、新たな革新、言うなら、革命とも思われるような表現が、合楽では、幾らもなされております。ね。宗教以前の、宗教としての、言うならば、面目と言うものがです、ね。出てこなければなりません。何々様でも良い、何々宗でも良いと言うことではない。もう金光教によらなければ、しかも、金光教も、合楽理念によらなければ、おかげがいただけないという事実をね、先ずは体得することである。如何に、合楽理念だ、合楽にご縁を頂いておるというても、だから、その真の信心を目指さなければ、合楽理念の実験実証を、日々なしていかなければ駄目なんです。ね。金光教が、それこそ、新たな色一色に、塗り替えられるほどしのおかげ。
今朝から、研修の時でした。佐田秀樹先生が、今朝から、お夢を頂いたと言う。こういう植木の鉢があるのに、こう何かが盆栽を植えてある。それにはこう、段々と、その鉢が重ねてある。ところが、段々、仕舞いには、その盆栽がなくなってしまって、中の根だけになってしまった。どうして、こんな根だけになったじゃろうかと思って、土を見たところが、あまりにも水が、水分が多すぎて、ね。こりゃもう、根腐れしかねないような状態にある。こらもう、今のうちに、これを大地に下ろした、そして、根を張らせなければいけないというところで、目が覚めた。今日は、皆さんに、聞いて頂いておるところは、その辺の所。今の教団の行き方というものが、ね。教団でも、今言う、それを感じる。今、このままではいけない。そこから、いよいよ、革新的な形の上の事ではあるけれども、そういう運動が起こり、だから、内面的にも、そういう運動が起らなければ駄目である。そんなら、どこに、その焦点を置いて、ね。革命をしていくかというと。いわば、人情教から神情教に変わっていかなければならない。ね。言うならば、人力に見切りをつけなければいけない。そして神力に、本気ですがらなければいけない。そこから生まれてくる人力は、ね。それは、限りない力が現せれるところの人力である。ね。人力に見切りをつけて、神力にすがれ、人力、おのずから湧く。おのずから湧いてくる人力でなからなければならない。神力と人力の、言うならば、コントロールである。ね。そこから、いわば、新たな金光教という事になるでしょう。
皆さんは、その、新たな金光教が出来ようとしておる、その一つの見本にも、手本にもならなければならないのである。新しい、いうなら、金光教。今までの金光教のお話の中から、聞いた事もなかった。だから、それを聞くと、あれは金光教じゃない、合楽教だという風な世情が、段々、高まってきた。けれども、ひとたび、ほんなら、合楽理念とは、合楽の信心とはと言うて、その事を聞いて見たり、研修してみると、ね。これは、やっぱり、ね。これが本当だという風に、段々、分かってくる。ね。
金光教内で言われてきた。また、金光教人で、金光教人であるなら、誰しもが知らんことはない言葉の中に、生かされて生きておるという言葉がある。ね。拝詞にも、その事が歌ってございます。ね。生かせれて生きておる事訳を知らずに、悩み苦しんでおる氏子というふうな言葉がございます。ね。世間の人達は、自分で生きとるかの様に思っておる。ではない、生かされて生きておるんだと。という事実を知らずに、悩み苦しんでおる。金光教の信奉者は、それを知っておる。金光教の信心を頂く者は、生かされて生きておるという事を知っておる。けれども、悩みは、やはり、続いておる、難儀はやっぱり、難儀として、難儀の中にあると。ね。こうもしますと、ちょっと、ここに考えなければならない事になるのじゃないでしょうか。生かされて生きてあるという事を知らぬから、世の中の者は、悩み苦しんでおると言う。ほんなら、金光教の信者は、みんなそれを知っておる。生かせれて生きておるという事を知っておるけれども、やっぱり、悩みも苦しみも、やっぱ、付いてまとっておるじゃないかと。してみると、ね。生かされて生きてあると言う事実を分かることよりも、ね。もっとその、根本的なものを実感として、ね。神様のおかげを頂かなければ立ち行かない私。障子一重が、本当にままならぬ我が身であるという事実をです。私共が、分からせて頂くためには、もう一つ、向こうに、信心があるように思うと言うのが、今朝からの御理解であった。
朝の御祈念に、柿の種をこう、削ったところを頂いた。広くしてますよね、柿の種は。今日、その御理解を頂いたら、丁度、去年の今頃、あの、柿の種のお知らせの御理解を頂いて、大変感動したと言うことがあったが、丁度、柿の種の御理解ですね。あれを、二つに割ると、中にも、ちゃっと、こうやって、柿の芽が芽ぐんでおる。人間も、生まれた時には、もう既に、生神としての、ここに芽が、もう宿っておる。ね。それを、私共が、先ず気付かせて頂くという事である。ね。自分の心のなかに、先ず、われ生神の芽が、ここに宿っておる事の発見が出来たならば、その芽を、何とかして育てようと言う心が起ってくる。人間は、土から出でて、土に帰ると言われるが、その道中とても、やはり、土の信心を必要とする。土の生き方が必要であるという事。ね。いわゆる、天の心地の心を、色々学ばせて頂いて、それを、言うならば、土の暖かみと言うかね。あの、水分と暖かみとが一つになって、いうなら、色んな種物が、こうやって芽を吹くように。私共の行き方、その信心の中身に、本気で土の信心に取り組ませてもらい、ね。そして、生神の芽が、初めて出た時に、ね。初めて、私共は、生かされて生きてあるという喜びも、生かされて生きてあるという事訳も分かることになるのです。まず、私の心に、生神を見らなければいけない。生神が、芽を吹いておる事を知らなければいけない。ね。それを育てて、もう、育てて行くではない。育てずにはおられないというところまで行った時に、初めて、生かされて生きてあるという事が分かる。そこには、いわば、難儀の壊滅である、ね。もう、開けてみれば、愛であるだけでない。もう、開けて見らなくても、愛であるという事が分かってくる。生神の目をもってしないと、それが分からない。ね。
革命とか革新とかと申しますと、言葉が非常に激しくなりますけれども、今、私共はね、その激しいまでの願いをもってです。いうなら、をの、佐田先生が、頂いておる、ね。代々続いてきた箱崎教会という、ご長男です、秀樹先生は。で、代々の信心によって、こうやってこう、盆栽が、一時代、綺麗になった時代もあったけれども。それが、段々こう、おかげが薄うなってきて、なくなってきてる、ね。そして、最後には、もう根ばっかりになっとる。どうしてだろうかと思うたところが、あまりに水分が多すぎた。ただ、信心は出来んのに、おかげだけが頂きすぎた。それが、もう、根までも枯らそう、腐らそうとしておるということに気が付いて。その根を、また大地に下ろさせて頂かなければならない使命、そういう責任が、箱崎教会の長男である、秀樹先生に、神様は掛けられてある。ね。という様にです。各教会の、言うならば、その時代を担われる先生方がです。そういう生き方を身に着けられたら、それこそ、大地に根を張って、そこから出る芽、そこから、段々栄えていくであろう根も葉も枝も、ね。限りない、いうならば、繁盛を頂くことが出来れる。そういう、いわば、過渡期にあるのが、今の金光教だと。ね。だから、銘々、ご信心を頂いておる者もです。ただ、日参をしております、ね。言うならば、毎月御本部参拝をさせて頂いておりますも良かろうけれども、そういう信心が、いわゆる、生神の、この芽を育てて行く事の為の、宅祭りであったり、御本部参拝であったり、日参でなからなければならないという事でございます。
金光教の信心の中に、御用さえすればとか、ね。手厚い信心を、毎日日参とか、御本部参拝とかというところで留まっておる。ね。これでは、如何に、信心させて頂いておっても、ね。それが、大きな光にも、おかげにも繋がらない。いよいよ、大きなおかげを頂くために、私共の信心が、大地に根を下ろしたような信心。先ずは、私共の心のなかに、われ生神の、言うなら、芽が、ここのなかに宿っておるという事を知って、ね。それを、育てる手立てを考える。合楽理念は、その手立てが、いわば、ね。見やすう、それこそ、誰でも分かる様に説いてございます。だから、生神の芽が、ここに育っていくという事。われながら、わが心が拝めれるような心。そういう事にならなければ、おかげにならん。
主人がわからん、主人がお金を使う、酒を飲んで困るとこう言うておる人がです。ね。うちの主人ば拝もうと思うけれども、あげな状態じゃ拝まれんと言うておった人がです。ね。段々、おかげを頂くようになったら、自分で、自分の心が、有難いなぁと分かるようになった。ある人に話したら、非常に感銘して、いやぁ私も、そこで悩んでおったが、あなたの話を頂いて助かったと言うた。もう、自分の言うておる事が、こら、ほんなもんである事が分かってきた。今日も、その人は、昼、日参してくるんです。ね。本当に、主人が拝めんと思うておったのは、自分の心が、拝めていなかった。自分の心が拝めれる様になったら、うちの主人は偉いなぁと、私は、本当に思うようになったと言うて、今日、お届けがあったんです。生神の芽を、いよいよ、育てていくという手立てがです。金光教の信心に変わりはない。金光教の信心に、天理教を持ってくるわけでもなからなければ、キリスト教を持ってくるわけでもない。もう、教祖金光大神、御ひと方のご信心の中に、そういう生神への、いうならば、信心が、ちゃんと、あるのだと。それを、人情で見たんでは、人情、人間心で行うたんでは、それが生まれてこない。どこまでも、一つ、合楽精神に基づいて、いよいよ、和賀心の神を育てていく。そして、今まで、拝めなかった事にも拝めれる。ね。今まで、難儀な事だと思うておった事も、一切神愛として拝めれるおかげ。生かされて生きてあるという事が分かれば、人間はみんな幸せかというと、そうではないという事をです。拝詞を今朝から、聞かせて頂きながら感じた。ね。そんなら、金光教の信心は、みんな知ってるし、分かってるから、幸せかと言うと、そうではない。その、もう一つ向こうの所に、気付かなかったり、おろそかにしておるところから、いうならば、われ生かされて生きてあるという事実も、障子一重がままならぬ人の身である事を知っておるけれども、おかげにならない。生神が育っていないからだという事になるのです。
いよいよ、今月は、今年最後の月でもあるし、また、合楽の御祭りとさえ思わせていただく、四神金光様、三代金光様の報徳の御祭りが十六日には仕えられます。また、この、三日には、親教会の御大祭でございます。この頃から、私も、腹を入れ替えた。皆さんも、入れ替えなさらなきゃいけない。もう本当に、親教会は、最高の人情を使われる人情教会です。いうなら、私共が、最高ではないけれども、神ながらに行く生き方。それとこれとがコントロールされて、そして、そこから、おかげを頂く、有難いというものを頂きたいと言うような念願を立てて、ね。一つ、合楽の信奉者の皆さんもです、ね。本当に、そうですね、あそこに合楽の方達が、百名お参りさせて頂いたら、もうあそこのお広前は、割れるように一杯になるだろうと思うのです。どうぞ、ご参拝をお願いします。もし、行けないお方は、どうぞ、お初穂でも託けて下さるようにお願いします。三日の十一時からでございます。どうぞ。